「その諸仏の大円境は、いまもいうように、伽那舎多尊者と同事に生まれたという。それも道理のないことではない。けだし、いういうところの大円鏡は、この生に属するものでもなく、また他の生に属するものでもない。あるいは、玉をもってなせる鏡でもなく、銅をもってつくれる鏡でもない。また、肉体の鏡でもなく、骨髄の鏡でもない。さらにいえば、いまの偈も、円鑑の説いた偈か、童子の説いた偈か。童子がこの四句の偈を説いたというのも、かって人にに学んだのでもなく、あるいは経巻によって得たものでもなく、乃至はかって善知識によって教えられたねのでもない。ただ、鏡を手にしてかくは説いたのである。幼い時から鏡に向かうことを常の習いとしたというのみである。生まれながらの智慧というものであろうか。それは、大円鏡が童子と一緒に生まれたと言ってよいのか、童子が大円鏡と一緒に生まれたといってよいのか。。きっとあとさきもあるのであろう。」(道元:正法眼蔵・古鏡)

原文「すでに諸仏大円鏡たとひわれと同生せりと見聞すといふとも、さらに道理あり。いはゆるこの大円鏡、この生に接すべからず、他生に接すべからず。玉鏡にあらず銅鏡にあらず、肉鏡にあらず髄鏡にあらず。円鑑の言偈なるか、童子の説偈なるか。童子この四句の偈をとくことも、曾人に学習せるにあらず、曾或従経巻にあらず、曾或従知識にあらず。円鑑をささげてかくのごとくとくなり。師の幼稚のときより、かがみにむかふを常儀とせるのみなり。生知の辨慧あるがごとし。大円鑑の童子と同生せるか、童子の大円鑑と同生せるか。まさに前後生あるべし。」(道元:正法眼蔵・古鏡)