「では心と眼とが相似ているというのはどういうことであるのか。それは、心は心に相似しているのであり、眼は眼に相似しているのである。相似しているのは心と眼であって、たとえば、心・眼それぞれに相似しているということである。ではさらに、心が心に相似しているとはどういうことであるか。いうところの三祖・六祖がそれである。また、眼か眼に相似しているというのはどういうことであるか。いわゆる「道眼は眼に礙(さ)えられる」ということである。いま、かの童子がいうところの偈の意は、ういうことであってそれが、童子のはじめて僧伽難提尊者にまみえた真の理由であった。その意味をよくよく思いめぐらして、大円鏡の写し出す仏祖の面影を学ぶがよい。それが古鏡をかえりみることなのである。」(道元:正法眼蔵・古鏡)
原文「心と眼と皆相似といふは、心は心に相似なり、眼は眼に相似なり。相似は心眼なり。たとへば、心眼各相似といはんがごとし。いかならんかこれ心の心に相似せる、いはゆる三祖・六祖なり。いかならんかこれ眼の眼に相似なる。いはゆる道眼被眼礙なり。いま師の道得する宗旨かくのごとし。これはじめて僧伽難提尊者に奉覲する本由なり。この宗旨を挙拈して、大円鏡の仏面祖面を参学すべし。古鏡の眷属なり。」(道元:正法眼蔵・古鏡)
「三祖・六祖」三祖鑑智禅師であり、六祖は大鑑慧能でいずれも禅師号に鑑の一時をおくられている。それをもって仏祖の心眼おのおの相似たることを象徴的に表現したのである。「眷属」かえりみるの意。

