人を鏡とむするといえば、博覧の人に古今のことを問えば。それで聖人・賢人用いるべきか捨てるべきかをしることもできる。たとえば、唐の大宗が魏徴ををえ、房玄歳をえたのがそれであろうと思うであろう。だが、それをそのように心得るのは、大宗が人を鏡とするという意味ではないのである。人をかがみとするというのは、鏡を鏡とすることであれ、自己を鏡とすることであり、天地のうごきを鏡とするのであり、人の道のありようを鏡とするのである。人間の去来するさまをみると、まさに」来るの迹なく、去るに方なし」であめ。それが人を掲げ身とする道理というものである。賢と賢ならぬとがさまざまであるのは、天の現象によくにている。まことに複雑である。人面の鏡があり、鏡面の鏡があ、り、日面の鏡があり、また月面の鏡がある。五霊山の精気ならびに四大河の精気が、幾久しく四海を澄ますのも、また鏡のならいというものである。人々をじっと見詰めて、そのさまざまの動きをはかる。それが大宗のことばの意味であって、博覧の人をいうのではないのである。(道元:正法眼蔵・古鏡)

原文「人を鏡とするときては、博覧ならん人に古今を問取せば、聖賢の用舎をしりぬべし、たとへば魏徴をえしがごとく、房玄歳をえしがごとしおもふ。これをかくのごとく会取するは、大宗の人を鏡とすると道取する道理にはあらざるなり。人を鏡とすといふは、鏡を鏡とするなり、己を鏡とするなり、五行を鏡とするなり、五常を鏡とするなり、人物の去来を視るに、来無迹、去無方を人鏡の道理といふ。賢不肖の万般なる、天象に相似なり。まことにこ経緯なるべし。人面鏡面・日面月面なり、五嶽の精およ゛四瀆の精、世をへて四海をすます、これ鏡の慣習なり。人物をあきらめて経緯をはかるを、大宗の道といふなり。博覧人をいふにあらざるなり。(道元:正法眼蔵・古鏡)

「五行」天地に流行して万物の形成する五つの元素(木・火・土・金・水)があり、一切の現象をその調和の相剋によって説明する。「五常」人の常に守るべき五つの道として、儒教の語るところである。仁・義・礼・智・信、あるいは、父・母・弟・子それぞれに守る゛゛きものとして、義・慈・友・恭・孝をうあげる。