「日本の国には、神代から三つの鏡かある。璽と剱とともに伝えかきたって今にいたる。一枚は伊勢の国の大神宮にあり、一枚は紀伊国の日前社にあり、一枚は内裏の内侍所にある。しかるとすれば、国家はみな鏡を伝持することが明らかである。鏡を得たことが国を得たことである。伝うるところによれば、この三枚の鏡は、神のみくらいとおなじものとして伝えてきたのだといい、天津神より伝えられたものだという。とすれば、百錬の銅をもって成せる鏡も、まことは天地陰陽の成せるところであって、さればこそ、古今に来現して、古今を照らす古鏡なのであろう。さきに雪峰がいうところの意をもってするならば、新羅がくれば新羅が現ずるのであり、日本がくれば日本が現れるといってよいし、あるいは、天来たれば天あらわれ、人来たればひとあらわれるといってもよいであろう。だが、その来現をそのように学んだからといって、なお、われらは、その現はいずれも本であり、いずれが末であるかを知っているわけではない。ただその現れるを見るのみであって、かならずしもその来現の真相を知っているのでも、よく理解しているわけでもない。そのいう意味は、胡人がくれば胡人が現れるというが、胡人がくるのは、ただ一筋の胡人がくるのであり、胡人が現れるのもまた一途に胡人が現れるのであって、別に現のための来といったことではない。古鏡は古鏡であるけれども、またそこのところを思い学ばねばならない。」(道元:正法眼蔵・古鏡)