看経の作法「また、僧が自分で発心して看経することもある。寺院はもともとすべての人に公界された看経堂があり、その堂において看経するのである。その仕方はいまの清規のとおりである。薬山の弘道禅師は高沙弥に問うていった。「そにたは看経によって得るところがあるか。それとも請益によって得るところがあるか」高沙弥はいった。「わしは看経によって得るわけではなく、また請益によって得るわけでもうりませぬ」師はいった。「おお、そんな人も大いにあろう。だが、看経もせず、請益もしないならば、いつた丑い、どうして得ないのであろう。高沙弥はいった。「他にはないとは申しません。ただ、わたしはどうも、そうは思えません」仏教のなかには、なるほどうまく当てはまる人もあろう、当てはまらぬ人もあろうが、ともあれ看経と請益とは、仏教者の家に常になくてはならぬ道具である。正法眼蔵 看経 時に仁治二年の秋 九月十五日 擁州(京都)宇治県興聖宝林寺にありて 衆に示す。
原文「また、僧みづから発心して看経するあり。寺院もとより公界の看経堂あり。かの堂につきて看経するなり。その儀、今清規のごとし。高祖薬山弘道大師、問高沙弥云、高沙弥看経得、「汝従看経得、従請益務得」高沙弥云、「不住看経得、亦不従請益得」師云、「大有人不看経、不請益、為什麼不得」高沙弥云、「不道他無、只是他不肯承当」仏祖の屋裏に承当あり、不承当ありといへども、看経・請益は家常の調度なり。」正法眼蔵 看経 爾時仁治二年丑秋九月十五日 在擁州宇治郡興聖宝林寺示衆
「請益」師に質問して、その教えを受けること。しょうやく」ともよむ

