衆生は無仏性「中国の第六祖曹谿山大鑑禅師(慧能)が、そのむかしはじめて黄梅山に詣ったとき、五祖後任(弘忍)は問うていった。「汝はいずれの処よりきたのか」彼はいった。「嶺南人でございます」五祖はいった。「来たってなにを求めとするのか」彼はいった。「ただ仏となることを求めるのでございます」五祖はいった。「嶺南人は無仏性である。どうして仏となれようぞ」この「嶺南人は無仏性」とうのは、嶺南人には仏性がないというのでもなく、嶺南人は仏性があるというのでもない。ただ「嶺南人は無仏性」というのである。「どうして仏となれようぞ」というのは、どうして仏になろうとするのかということである。」(道元:正法眼蔵・仏性)

原文「震旦第六祖曹谿谷山大鑑禅師、そのかみ黄梅山に参ぜしはじめ、五祖とふ、「なんぢいづれのところよりきたれる」六祖いはく、「嶺南人なり」五祖いはく、「きたりてなにごとかもとむる」六祖いはく、「作仏をもとむ」五祖いはく、「嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん」この嶺南人無仏性といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、嶺南人無仏性となり、如何にして作仏せんといふは、いかなる作仏をか期するといふなり。」(道元:正法眼蔵・仏性)