衆生無仏性ということ「かかるがゆえに、五祖は、彼に向かって語るに、嶺南人は無仏性だといったのである。仏法を学にあたって、まず聞きうることの難きは、衆生無仏性ということである。あるいは善知識にしたがい、あるいは経巻によって、聞いてよろこぶべきことは、衆生無仏性ということでなくてはならぬ。一切衆生に仏性なしと、いやというほど聞かされ思いしらされるのでなかったならぱ、まだ仏性のことを聞いた解ったとはいえない。六祖はひたすらに仏にならんことをねがう。五祖は彼をしてよく作仏せしめようとする。それには他の言い方はない。ただ「嶺南人は無仏性」だというのみである。かくて、無仏性と語り、無仏性と聞く。それがまっ直ぐに作仏にいたる道だと知られるのである。とするならば、当に無仏性のその時こそが、とりも直さず仏となる時である。いまだ無仏性と聞かず、語らざる時には、まだ仏にはなれないのである。すると、六祖はいった。「人に南北はあっても、仏性には南北はありません」そのことばを取り上げて、その句のこころを思いめぐらしてみるがよい。とくに南北ということばは、心にあてて照らしてみるがよいのである。この六祖のことばには大事な意味がある。それは、人は仏になりえても、仏性は仏となりえないというひとつの構えである。六祖はそれに気が付いていたかどうか。」(道元:正法眼蔵・仏性)

原文このゆへに、五祖は向他道するに、嶺南人無仏性と為道するなり。見仏聞法の最初に、難得難聞なるは衆生無仏性なり。或従知識、或従経巻するに、きくことのよろこぶべきことは衆生無仏性なり。一切衆生無仏性を見聞覚知に参飽せざるものは、仏性いまだ見聞覚知せざるなり。六祖もはら作仏をもとむるに、五祖よく六祖を作仏せしむるに、他の道取なし、善巧なし、ただ嶺南人無仏性といふ。しるべし、無仏性の道取聞取、これ作仏の直道なりといふことを。しかあれば、無物性の正当恁麼時、すなはち作仏なり、無仏性いまだ見聞せず、道取せざるは、いまだ作仏せざるなり。」(道元:正法眼蔵・仏性)