いったい、安楽。・兜率天などという浄土や世界は、そのいずれに赴くもなお輪廻なることに変わりはない。行くといえば行くであり、悟りといえば悟りであり、また、な迷いと言えば迷いである。それがすべて、行仏の草鞋のなかの、かりそめの足指のあごきなのである。あるいは、それはまた、一発の放屁の超えといってもよく、、また脱糞のかおりといってもよい。鼻の孔のある者は嗅ぐことができる。耳があり、身があり、足があるならば、聞くこともできよう。その得るというのは、わが皮肉を得、わが骨髄をうるのであるから、別に行じて他より得来るのではない。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
原文「しるべし、安楽兜率といふは、浄土・天堂ともに輪廻することの同般なるとなり。行履なれば、淨土・天堂同じく行履なり。大悟なれば、おなじく大悟なり。大迷なればおなじく大迷なり。これしはらく行仏の鞋裏(あいり)の動指なり。あるときは一道の放屁声(ほうひせい)なり。放屎香(ほうしこう)なり。鼻孔あるは齅得(きゆうとく)す。耳処(じしょ)・身処(しんしょ)・行履処うるに聴取するなり。また得吾皮肉骨髄するときあり、さらに行得に他よりえざるものなり。(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
「輪廻」とは流れ経めくるの意で衆生が様々の生を経めくること。

