行仏の自由自在「しかるに、いま行ずる仏のなすところは全く自由自在である。たとい仏だからといっても、泥を拕き水にもぐるの活路に通じているから、なんの礙げにもならない。天界にのぼれば神々を教化し、人間界にあれば人々を教化する。花ひらけば世界起こるであって、その間すこしも隙間がないのである。だから、遥かに自他の境をとおく超え、往くも来るも独住独歩である。すなわち、兜率天に往き、兜率天より来たって、なん感激もなく、また安楽土に到り、安楽土より来たって、つねに住自在である。あるいは兜率天をはるかに脱し、安楽土をとおく超えるものであり、あるいは、安楽・兜率を千々に砕くのであり、あるいは、兜率・安楽を捉えてはまた放つのである。つまり、一口にして呑みつくすのである。}(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
原文「いま行仏威儀の無礙なる、仏に礙せらるるに、陀泥滞水の活路を通達しきたるゆゑに無罣礙なり。上天にしては化天す。人間にしては化人す。華開の功徳あり、世界起のくどくあり、かって間隙なきものなり。このゆゑに、自他の迥脱あり、往来に独抜あり。促往兜率天なり、促来兜率天なり。即即兜率天なり。即往安楽なり、即来安楽なり。即即安楽なり。即迥脱兜率なり、即迥脱安楽なり。即打破百雑砕安楽兜率なり。即即把定放行安楽兜率なり。一口呑尽なり。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)

