「かくして生死を了得して、まったくこだわることのない境地にいたれば、ふるくからいいきたった言葉がある。「大聖は、生死を心にまかせ、生死を身にまかせ、生死を大道にまかせ、生死を生死にまかす」と。その意味することを実現するのは、古の時でもない、今の時でもない。ただ行仏之威儀のなるとき、忽然として行じ尽くされるのである。それは、どこが始め、どこが終わりというのではないが、生死・身心のおもむきがすうっと肯けてくるのである。行がいたると明(みょう)がいたる。それが自然なのである。頭を撫でて鏡に向かえば、そこに頭がある。それによく似ているのである。反射して返照する。それと同じである。その明(めい)のうえにさらにその明をかさねることも、行仏にいよいよ豊にして、行ずるにしたがって思うがままである。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)

原文「了生達死の大道すでに弁肯豁達するに、ふるくよりの道取あり。「大聖は生死を心にまかす、生死を身にまかす、生死を道にまかす、生死を生死二まかす」。この宗旨あらはるる、古今のときにあらずといへども、行仏の威儀忽爾として行尽するなり。道環として生死身心の宗旨、すみやかに弁肯するなり。行尽明尽、これ強為(ごうい)の為にあらず。迷頭認影に大似なり、回向返照に一如なり。その明上又明(めいじょううめい)の明は、行仏に弥綸(みりん)なり。これ行取に一任せり。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)

「道環」とは、袈裟の環(わ)である。何処が始めでどこが終わりかいえないが故に、生死の流転の終始無きを喩えるのである。「弥綸」とは、あまねく行き渡るの意。