「しかるに、この大神通はそうではない。もろもろの仏の教法も修行も証得(さとり)も、すべてこの大神通によって実現せしめるのである。それは、もろもろの仏のまします処において実現するのみならず、また、仏のいまだいまさぬ時と処とにおいても実現する。神通力をもった仏の強化のしかたは、まったく不思議なものであって、その仏のいまだいまさぬさきにその神通力が現ずる。前か中か後かに関しないのである。仏の神通によるにあらずしては、もろもろの仏の発心も修行も正覚も入滅もいまだかってないのである。いま、このかぎりなき世界の常にして変わらざるも、みなそれは仏の神通である。「一毛が巨海を呑む」のみではない。また一毛が巨海を保つのであり、一毛が巨海を現ずるのであり、一毛が巨海を吐くのであり、一毛が巨海ならしめるのである。そのように、一毛がすべての世界を呑みかつ吐くとき、では、世界がことごとくそうなったら、もはや世界はなくなってしまうかのようにまなんではならない。」(道元:正法眼蔵・神通)
原文「この大神通はしかあらず。諸仏の教行証、おなじく神通に現成せしむるなり。ただ諸仏の辺に現成するのみにあらず、仏向上にも現成するなり。神通仏の化儀、まことに不思議なるなり。有身よりさきに現ず、現の三際にかかはれぬあり。仏神通にあらざれば、諸仏の発心・修行・菩提・涅槃いまだあらざるなり。いまの無尽法界海の常不変なる、みなこれ仏神通なり。毛呑巨海のみにあらず、毛保任巨海なり。毛現巨海なり、毛吐巨海なり、毛使巨海なり。一毛に尽法界を呑却し吐却するとき、ただし一尽法界かくのごとくなれば、させに尽法界あるべからずと学することなかれ。」
教行証とは、教法と修行と得証、それで仏今日のすべてが尽くされているのてある。化儀とは、教化の様式。有身とは、仏心の実現の意。三際とは、過去・現在・未来、もしくは、前・中・後の三時の意。無尽法界海とは、存在の世界のかきりなきこと海の如し。海はその深い事広いこと似措いて尽くし難いことを喩えている。

