「仏法相伝の祖師はかくいうのである。それは、夢を語り、面(かお)を洗ったにすぎないといってはならぬ。まさに一場の神通と心得るがよいのである。すでに、「ちっぽけな神通とはちがう」という。小乗の小量の小さな考え方と同じはずはなく、また修行の途上にあるもののそれと同じであろう道理はない。彼らは、みな、小神通をならい、小さな自己を形成しているのであって、とうてい仏祖の大神通には及ばない。これは仏の神通であり、仏となる神通である。この神通をならおうとする者は、悪魔・外道に心をうごかされてはならない。それは、経師や論師のたぐいのいまだ知らざるところであり、聞いてもおそらくは信じ難いであろう。小乗の徒や、外道・経師・論師などは、ただ小神通をなろうて、大神通をならわないのである。ただ、もろもろの仏だけが大神通を保持し、大神通を相伝する。それが仏の神通である。仏の神通でなかったならば、一盆の水も来たらず、一条の手巾も来たらず、また、うとうとと壁に面を向けて眠ることもなく、面を洗いおをわってやっと坐につく場面もないのである。」

原文「仏法正伝の祖師、かのごとくいふ。説夢洗面といはざることなかれ。一上の神通なりと決定すべし。すでに不同小小といふ、小乗・小量・小見におなじかるべからず、十聖三賢等に同ずべきにあらず。かれらはみな小神通をならひ、小身量のみをえたり、仏祖の大神通におよばず。これ仏神通なり、仏向上神通なり。この神通をならはん人は、魔外にうごかさるべからざるなり。経師論師はいまだきかざるところ、きくとも信受しがたきなり。二乗外道・経師論師等は小神通をならふ、大神通をならはず。諸仏は大神通を保持す、大神通を相伝す。これ仏神通なり。仏神通にあらざれば、盆水来手巾せず、転面向壁臥なし、洗面了纔坐なし。」(道元:正法眼蔵・神通)