「搬柴(はんさい)というは、柴をはこぶことである。たとえば、六祖がその昔していたことである。朝な夕なに柴をはこびながら、自分ではそうとは気がつかなかったけれども、やはり神通はちゃんと実現していたのである。まったく、もろもろの仏祖のこの神通の妙用を見聞するならば、やがて必ずや仏道をさとりうるであろう。その故に、もろもろの仏はすべて、かならずこの神通のちからによって仏道をさとるのである。だから、いまや、頭上に水を出し、脚下に火を生ぜしめるがごときは小神通なりと心得て、この運水・搬柴の大神通なることを学がよい。搬柴・運水のことは、いまもなお廃れず、さしおく者はない。昔より今に及び、これよりかれに伝えられて、しばらくも止む時がないのが神通の妙用というものである。これこそ大神通であって、ちっぽけな神通とはちがうのである。」(道元:正法眼蔵・神通)

原文「搬柴とは、たき木をはこぶなり。たとへば六祖のむかしのごとし、朝打三千にも神通としらず、暮打八百にも神通とおぼえざれども、神通の見成なり。まことに諸仏如来の神通妙用を見聞するは、かならず得道すべし。このゆゑに、一切諸仏の得道、かならずこの神通力に成就せるなり。しかあれば、いま小乗の出水たとひ小神通なりといふとも、運水の大神通なることを学すべし。運水搬柴はいまだすたれざるところ、人さしおかず。ゆゑにむかしよりいまにおわぶ、これよりかれにつたはれり。須臾(しゆゆ)も退転せざるは、神通妙用なり。これは大神通なり。小小とおなじかるべきにあらず。」(道元:正法眼蔵・神通)

{須臾」とは、しばらくの間の意。