無常とは即ち仏性である「六祖が門人の行昌にしめしていった。「無常とはすなわち仏性である。有常はすなわち善悪の一切諸法を分別する心である」ここに六祖がいうところの無常は、外道や小乗などの測り知るところではない。小乗や外道のやからどもも、また無常というけれども、彼らはその意を汲みつくすことはできないのである。つまり、無常なるものがみずから無常を説きいで、行じきたり、証し去るならば、全ては無常であろう。「いま現在の自身をもって得度すべき者には、すなわち自身を現じてために法を説く」という。それが仏性である。さらにある時には、大いなる法身を現ずることがあり、またある時には、小さなる法身を現ずることもあるであろう。常なる聖者も無常である。常なる凡夫も無常である。凡夫と聖者とがきまっいるとしたら、それは仏性ではありえない。それは見解の狭い愚か者のみるところであり、凡俗の推測していうところであって、その仏は小さなる仏であり、その性はつまらぬ作用しかできない。その故をもって六祖は「無常は仏性なり」といった。」(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「六祖示門人行昌云、「無常者即仏性也、有常者即善悪一切諸法分別心也」いはゆる六祖道の無常は、外道二乗等の測度にあらず。二乗外道の鼻祖鼻末、それ無常なりといふとも、かれら窮尽すべからざるなり。しかあれば、無常のみづから無常を説著・行著・証著せんは、みな無常なるべし。「今以現自身得度者、即現自身而為説法」なり。これ仏性なり。さらに或現長法身、或現短法身なるべし。常聖これ無常なり。常凡これ無常なり。常凡聖ならんは、仏性なるべからず。小量の愚見なるべし。測度の管見なるべし。仏者小量身也、性者小量作也。このゆへに六祖度取す、無常者仏性なり。」(道元:正法眼蔵・仏性)
「鼻祖鼻末」鼻祖は始祖、鼻末はむその末流である。「今以現自身得度者、即現自身而為説法」現二あるところの身をもって、現二あるところの自身を現じて、それぞれに相応しい国土衆生のために法を説くべき事。「得度」仏道を学んで彼岸に渡ることヲ得ること。一般には仏門に入ること。

