「思うに、四祖・五祖の語った無仏性という表現は、まことに注目をうながすに足るものであった。はるかにそれに僧対して、迦葉仏や釈迦牟尼仏などの仏たちは、仏となり法を説くにあたって、悉有仏性と表現する力をもっておられた。その悉有の有から無へと法が嗣がれてきてもすこしも不思議ではない。かくしてむ仏性の語は四祖・五祖の室内より聞こえきたって、はるかに今日におよんでいる。だが、この時、六祖ほどの人であったならば、この無仏性の語をもう一歩ふみこんだ工夫があってしかるべきでったと思う。有りや無しはしばらく措いて、いったい仏性とはいかにと問うてみるべきであった。仏性とはそもそもどのようなものかと訊ぬべきではなったか。いまの人々も、仏性と聞けば、さらに仏性とはなんぞと問うことをせず、ただ仏性の有りや無しやなどをのみ論ずる。それと同じである。迂闊というものである。とするならば、しばらくいろいろの場合の無をとりあげて、無仏性の無にあてて考えてみるがよい。六祖は「人に南北あり、仏性に南北なし」といった。その表現を再三再四、ふかく沈静して掬うてみるがよい。蝦をとるには撈波子という竹具をもってすくう。まさにそのようにして掬ってみるがよい。あるいはそれを静に拈ねまわしてみるがよい。しかるに愚かなる輩は、人間には物のひっかかりがあるから南北があるが、仏性は虛にして無礙なるがゆえに南北の論におよばずと、六祖のことばをそんな工合に推し測る。それはわけもない愚蒙の沙汰というもの。そんな愚かな考え方はなげすてて、まっ直に学びいたらねばならない。」(道元:正法眼蔵・仏性)

原文「四祖・五祖の道取する無仏性の道得、遥かに罫偈礙の力量ある一隅をうけて、迦葉仏及び釈迦牟尼仏等の諸仏は作仏し転法するに、悉有仏性と道取する力量あるなり。悉有仏の有、なんぞ無無の無に嗣法せざらん。しかあれば、無仏性の語、はるかに四祖・五祖の室よりきこゆるなり。このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功夫すべきなり。有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ仏性と問取すべし、なにものかこれ仏性とたづぬべし。いまの人も、仏性とききぬれば、さらにいかんなるかこれ仏性と問取せず、仏性の有無等の義をいふがごとし。これ倉卒なり。しかあれば、緒無の無は、無仏性の無に学すべし。六祖の道取する人有南北、仏性無南北の道、ひさしく再三撈摝(ろうろく)すべし。まさに撈波子に力量あるべきなり。六祖の道取する人有南北、仏性南北の道、しずかに拈放すべし。おろかなるやからおもはくは、人間に質礙(しつげ)すれば南北あれども、仏性は虛融(こゆう)にして南北の論におよばずと六祖は道取せりけるかと推度(すいたく)するは、無分の愚蒙なるべし。この邪解(じゃげ)を抛却(ほうぎゃく)して、直須勤学(じきしゃごんがく)すべし。」(道元:正法眼蔵・仏性)

「無分」分はわきまえの意。