「西安国師の有仏性」杭州塩官県の西安国師は、馬祖門下の長老である。ある時、衆に示していった。「一切衆生有仏性」いうところの一切衆生ということばを、まず検討してみなければならない。一切衆生は、その所業、身心、住む世界においてひとつではなく、従ってその考え方その考え方もまちまちである。あるいは凡夫や外道の考え方があり、あるいは三乗・五乗の考え方など、それぞれに相異なる。いま仏教でいう一切衆生は、心ある者はみな衆生である。心が即ち衆生であるからである。だが、心なき者も同じく衆生であろう。衆生が即ち心であるからである。とするならば、心はみな衆生であり、衆生はみな有仏性である。草木国土は心である。心であるから衆生であり、衆生であるから有仏性である。日月星辰は心である。心であるから衆生であり、衆生であるから有仏性である。いま国師がいうところの有仏性とは、そのようなことなのである。もしそうでなかったならば、仏教でいうところの有仏性ではあるまい。しかるに、いま国師がいうところは、一切衆生有仏性とのみである。とすると、衆生でないものは、有仏性ではないであろうか。そこで国師に問うてみるがよい。「一切の諸仏は有仏性なりやいなや」そのような問いをたてて吟味してみるのもよいのである。(道元:正法眼蔵・仏性)

原文「杭州塩官県の西安国師は馬祖門下の尊宿なり。ちなみに衆に示していはく、「一切衆生有仏性(うぷつしょう)」いはゆる一切衆生の言、すみやかに参究すべし。一切衆生、その業道依正(こうどうえしょう)ひとつにあらず、その見(けん)まちまちなり。凡夫・外道・三乗・五乗等、おのおのなるべし。いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆへに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆへに。しかあれば、心みなこれ衆生なり。衆生みな有仏性なり。草木国土これ心なり。心なるがゆへに衆生なり、衆生なるがゆへに有仏性なり。日月星辰これ心なり。心なるがゆへに衆生なり。衆生なるがゆへに有仏性なり。国師の道取する有仏性、かくのごとし。もしかくのごとくにあらずば仏道に道取する有仏性にあらざるなり。いま国師の道取する宗旨は、一切衆生有仏性のみなり。さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし。しばらく国師にとふべし。一切諸仏有仏性也無。かくのごとく問取し試験(しげん)すべきなり。」(道元:正法眼蔵・仏性)

「三乗・五乗:三乗」とは、声聞乗、縁覚乗,菩薩乗をいい、五乗とは、それに人乗、天乗の二乗を加えたもの。これらを並記して仏教にも衆生についていろいろの見解のあることをしめす。「心是衆生」衆生とは有情、つまり情識あるものをいうので、心これ衆生という。「無心者」非情すなわち艸木国土・日月星辰をさしている。それらもまた心なり、したがって衆生なりという。