風火散ぜずとは「仏性の消息は、この長沙の言葉によって忖度するがよく、風火いまだ散ぜずという言葉をしずかに思いめぐらしてみるがよい。いまだ散ぜずとはいかなることであるか、風火のあつまっていたのが、まだ散ずる時が来ないというのか。そんな筈はあれえない。風火いまだ散ぜずとは、仏が法を説くのであり、いまだ散ぜぬ風火とは、法が仏を説くのである。言葉をかえて言えば、一音の法を説く時機が到来したのであり、法を説く一音が到来する時機である。法は一音である。一音の法だからである。(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「仏性の活計は、長沙の道を卜度すべし。風火未散という言語、静に劫夫すべし。未散といふは、いかなる道理かある。風火のあつまりけるが、散ずべき期いまだしきと道取するに未散といふか。。しかあるべからざるなり。風火未散はほとけ法をとく。未散風火は法仏をとく。たとへば、一音の法をとく時節到来なり。説法の一音なる。到来の時節なり。法は一音なり。一音の法なるゆへに。」(道元:正法眼蔵・仏性)
「一音の法」一音は「ぃっとん」とよむ。にょらい説法は一音であるが聞く者がこれを様々に受け取るという。

