仏性は如何に「仏性は生きているときのみのことで死んだ時にはないと思うのは、とんだ不勉強のあさはかな考えである。生の時にも有仏性であり無仏性である。死の時にも有仏性であり無仏性である。風火の散る散らぬをもっていうならば、そのいずれの時にもまた然るのである。たとい風火の散る時にも仏性は有であり、また無である。またいまだ散らない時にも、有仏性であり、無仏性である。それなのに、その仏性を、動と不道によって在りもしくは在らずとなし、また、識と不識とによってその霊妙なはたらきをありとしあらずとする。あるいは、知るか知らざるかによって仏性の具すると具せざるを分たんとする者もあるが、そのような考え方はすべて誤った外道の考え方である。ふるい昔から、愚かなる者達はたいてい、意識の不思議なはたらきをもって仏性なし、それが本来の人間だとしているが、まことに笑止千万のことである。もはや仏性を語るにこれ以上のことばを重ねるべきではないが、ずばりというならば、それは牆壁瓦礫である。では、それを仏の境地に向かっていうならば、そも仏性はいかに、それはもう、すべて三面八臂の仏にお任せしよう。道元:正法眼蔵・仏性 この時、仁治二年十月十四日、擁州(京都)観音導利興聖宝林寺にありて衆に示す。

原文「また仏性は生ときのみにありて、死のときはなかるべしとおもふ、もとも少聞薄解なり。生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。しかあるを、仏性は動不道によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは外道なり。無始劫来は痴人おほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる。笑殺人なり。さらに仏性を道取するに、拕泥滞水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫なり。向上に道取するとき、作麼生ならんかこれ仏性。還委悉麼、三頭八臂。」正法眼蔵 仏性 爾仁治二年辛丑十月十四日、擁州観音導利興聖宝林寺衆示。」