「仏博について」「仏縛というのは、智慧を智慧として知りかつ解するところから、その知見、その理解に束縛されることである。そのような思いがちらりと念頭をかすめただけでも、とても解脱などは思いもよらず、いつまでも思い違いを繰り返すばかりである。智慧を智慧として考えるのは、それは智慧にふさわしい知見であって、誰もそれは間違いだとはいうまい。だが、ひそかに思えば、つまりそれが縄なくして自ら縛するというものであろう。その縛たるや綿々として絶えず、樹枯れて藤枯るるにあらず、ただ徒らに仏法の周辺に窟を掘って生き続けるのみである。。ために法身の病むことも知らず、報身(ほうじん)の窮することも知らない。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
原文「仏縛といふは、菩提を菩提と知見解会する、即知見、即解会に即縛せられぬるなり。一念を経歴(きょうりゃく)するに、なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解す。菩提すなはち菩提なりと見解せん。これ菩提相応の知見なるべし。たれかこれを邪見といはんと想憶す。これすなはち無縄自縛なり。縛縛綿綿として樹倒藤枯にあらず、いたづらに仏辺の窠窟に活計せるのみなり。法身のやむふをしらず、報身の窮をしらず。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)

