行仏とはむ「もろもろの仏たちはかならず整々たる作法にかなった行住坐臥をいとなむ。これを行仏という。行ずる仏である。その行仏は、報仏すなわち過去の願行によって成れる仏でもなく、化仏(けぶつ)すなわち通力をもって化作した仏でもない。あるいは、自性身仏すなわち法そのものとしての仏でもなく、他性身仏すなわち衆生のために姿を現じた仏でもない。あるいはまた、本覚すなわち衆生が本来有する覚性をいうのでもなく、始覚すなわち覚性のはじめて目ざめたるをいうのでもなく、乃至は、つまり性のほかに覚はないということでもない。そのような仏の概念は、決して行仏とならべていうべきものではないのである。そもそも、もろもろの仏は、仏道を行じて覚(さとり)をのみ期待するものではないということを、まず知るべきである。ただ一筋に、仏にむかっての道を、一歩一歩と踏みしめてゆくのである。それはただ行仏のみである。自性身仏などということは、夢にも見ないところである。(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
原文「諸仏かならず威儀を行足す。これ行仏なり。行仏それ報仏にあらず、化仏にあらず、自性身仏にあらず、他性身仏にあらず。始覚・本覚にあらず、性覚・無覚にあらず。如是等仏、たえて行仏に斉肩することうべからず。しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり。仏向上の道に行履を通達せること、唯行仏のみなり。自性仏等、夢也未見在なるところなり。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
威儀とは、行住坐臥における振る舞いのぴたりと律儀作法に適えることをいう。「行仏」とはまずは、仏を行ずるのではなく、むしろ行をもって仏となるという意。「報仏」「報身仏」とは過去における願・行の報いてなれる仏の意。「化仏」とは菩薩がその通力をもって示現する仏心をいう。「自性身仏」とは法身仏のことである。法その者を仏心とするのであめから無形無色な抽象的なものである。「他性身仏」とは他受用身の仏、すなわち衆生の機根に応じて示現る仏心である。「始覚・本覚」とは、衆生のもともと有する覚りの可能性を本覚といい、それがきはじめて目覚めて現実態となるのが始覚という。「性覚・無」真理の本体はもともと覚めているという考え方を性覚といい、その本体をほかにして覚はないというのであるから無覚という。

