゜経仏威儀の基準はない」「しかるに、いまこの行ずる仏は、かってそのような縛に縛せられないのである。そのゆえに「われもと菩薩の道を行じて、その重ねるところの寿命はいまもなお尽きず。またさきの数の倍するであろう」という。そのいう意味は、菩薩の寿命がいままで連綿として続いているというのでもなく、また仏の寿命が過去に遡ってどこまでも続いているというのでもない。いうところの「さきの数」とは、これまでに重ねてきた寿命のすべてであり、また「「いまもなお」尽きないというのも全寿命のほかではない。ただ「われもと行じきたる」ところは、たとい万里の長城のように連綿として続いていようとも、すべて生死無常のこの身にうち任せて拘るところがないのである。とするならば、修行や証悟ののことは、無いでもなく、有るでもなく、また、それが人を拘らせるものでもない。いったい、仏道には仏もなく人もなしていう。その境地においては、さまざまのありようがあるが、なお行仏を拘らすものはないのである。つまり行仏は修・証にまどわされない。それは修・証が淨らかだからではない。修・証もまた執すれば浄らかではない。ただ行仏はそれに執することがないのである。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
原文「いま行仏かってのごとくの縛に縛せられざるなり。かるがゆゑに、我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数なり。しるべし、菩薩の寿命いまに連綿とあるにあらず、仏寿命の過去に布遍せるにあらず。いまいふ上数は、全所成なり。いひはたる今猶は、全寿命になり。我本行たとひ万里一条鉄なりとも、百年抛却任縦横なり。しかあればすなはち、修証は無にあらず、修証は有にあらず、修証は染汗(ぜんな)にあらず。無仏無人の処在に百千万ありといへども、行仏は染汗せず。ゆゑに行仏の修証に染汗せられざるなり。修証の不染汗なるにあらず。この不染汗、不無なり。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
「染汗」煩悩・執着などの作用のために、本来清浄な心性が覆われ、不淨にされる事をいう。
「無仏無人」仏にいたる道にある者を説いて、仏でもない、凡夫でもないと語るのである。

