「たとえば、仏のなされたことを標準として、大道を推し量ってはならない。仏の行動は一隅のことであって、いえなれば一輪の花の開くごときものである。あるいは、心に思うところを規準として、為すべき律儀を思い訪ねて花羅那心の思い喪また一面的なものである。たとえば、一つの世界というようなものである。一本の草もまた、あきらかに仏作の心のうごきを示しているが、それはなお、行ずる仏の出処をしるべき一つの依りどころにすぎない。一つの心の思いも、たといそれが多くの仏たちの垂範を包蔵していると判っても、なお行ずる仏の進退の規準とするには、やっぱり足りないといわねばならぬ。行仏の出処進退はそれを超えているのであるから、中(あた)らないのであり、使いえないのであり、また測りえないのである。」(道元:正法眼蔵・ 行仏威儀)

原文「仏量を拈来して大道を測量し、度量すべからず。仏量は一隅なり、たとへば華開のごとし。心量わ挙来して威儀を模索すべからず、擬議すべからず。心量は一面なり、たとへば世界のごとし。一茎草量、あきらかに仏祖心量なり。これ行仏の蹤跡を認ずる一片なり。一心量たとひ無量仏量を包含せりと見徹すとも、行仏の容止動静を量千と擬するには、もとより過量の面目あり。過量の行履なるがゆゑに、即不中なり、痴使不得なり、量不及なり。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)