この曹谿大師のいうところは、たといわたしのことではなくとも、なんじはそうではない筈はあるます。行仏の護念するところ、そして、行佛の通達するところは、すべてみなそうなのである。だからして、修行・証悟のことは、性が大事が相が大切かなどということではなくて、仏の律儀作法を行ずることが、そのまま仏を行ずることとなのり、同時にまた仏によって行ぜしめられることとなるのだと知られる。そこには、法のために身を捨てることがあり、また、身のために法を捨てることもある。あるいは、身命を惜しまざることがあり、また、身命を惜しむこともある。あるいはまた、法のために法を捨てることもあるし、心のために法を捨てるという範例もある。捨てるには限りがないことを忘れてはならない。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)

原文「曹谿古仏の道得、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらんや。行仏之所護念、行仏之所通達、それかくのごとし。かるがゆゑにしりぬ、修証は性相本末等にあらず。行仏の去就、これ果然として仏を行ぜしむるに、仏すなはち行ぜしむ。ここに為法捨身あり、為身捨法あり。不惜身命あり、但惜身命あり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。捨は無量なること、忘るべからず。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)

「性・相」性はかわらぬ本性であり、相はその現れとしての姿・はたらき・ちからである。それに本末の語をつけると性を本、相を末などと論ずることをいう。