「眼前に百草がきそい茂っておるのに、一つもみえない、なんにも見えないと慌ててはいけない。かしこに行き、ここに来たって、あれを摘み、これを摘んで、おなじ門を出たり入ったりしているうちに、すべてこの世界にはなんの覆い蔵すところもないのだから、やがて、世尊のことばもさとりも、あるいは、なさることも、命じたもうところも、ぴたりと解ってくるというものである。「門を出ずればすなわちこれ草、門を入ればすなわちこれ草、万里寸草なし」という。いや、入りの一字や、出の一字は、いずれもいらない。そんな捉えかたは、放っておいたほうがよいともいわないが、つまりは夢まぼろしの非現実のことである。だが、誰がそれを単なる錯誤といいうるであろうか。歩を進むるも錯い、歩を退くもまた錯う。一歩も錯、二歩も錯であるから、錯また錯にならざるはない。だが、天と地ほどの隔たりがあるからこそ、「道にいたるは難からず」である。つまり、威儀でもよい、儀威でもよい。大道は本来ゆるやかなもの00だと思い定めるがよい。たとえば、出生にも道に合して出で、入死にも道に合うて入るのであって、その徹頭徹尾において珠玉を転ずるがごとき威儀がととのっているのだと知るがよい。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)

原文「眼礙の明明百草頭なる、不見一法、不見一物と道著することなかれ。這法に若至なり、那法に若至なり。拈来拈去、出入同門に行履する、遍界不曾蔵なるがゆゑに、世尊密語・密証・密行・密附等あるなり。出門便是草、入門便是草、万里無寸草なり。入之一字、這頭也不用得、那頭也不用得なり。いまの把促は方行をまたざれども、これ夢幻空華なり。たれかこれを夢幻空華と将錯就錯せん。進歩也錯、退歩也錯、両歩也錯なるがゆゑに錯錯なり。天地縣隔するがゆゑに至道無難なり。威儀儀威、大道体寛と究竟すべし。しるべし、出生合道出なり。入死合道入なり。その頭尾正に、玉転殊回の威儀現前するなり。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)