また、いまの四生のことはすでに聞き及ぶところとして、では、死についてはいくつあるのか。四生があるから四死があるべきか。それとも、二死か三死であろうか。あるいは、五死・六死があり、千死・万死があるのであろうか。そこの道理にすこしく首を傾(かしげ)てみるのも、また仏教をまなぶべきというものである。また、さらに思いめぐらしてみるがよい。この四生の類いのなかには、生はあって死はないというものがあるだろうか。あるいは、死のことは聞くが、生については聞かぬというものがあるだろうか。ただ生のみ、ただ死のみという類のものが有るか無いか、それを必ず学ぶがよい。
原文「すでに死生はきくところなり。死はいくばくかあるか。四生には四死あるべきか、また三死二死あるべきか、また五死六死、千死万死あるべきか。この道理わずかに疑著せんも、参学の分なり。しばらく功夫すべし、この四生衆類のなかに、生はありて死なきものあるべしや。また死のみ単伝にして、生を単伝せざるありや。単生単死の類の有無、かならず参学すべし。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)

