「しかるに、いま圜悟の評釈には、玄沙とおなじでもなく、また雪峰にも同ぜざることばがある。「烈々たる火焔が天にわたる」というのは、「仏が法を説く」のであり、転にみなぎる烈々たるかえん」とは、「法が仏を説く」のであるというのがそれである。そのことばは、まことに後学の光明たるべきものである。たといこの土は烈々たる焔におおわれて暗くとも、なお一天の覆うところであるから、われもまたその分があり、他(ひと)にもまたその分があるのであろう。なるほど、さの一天の覆うところは、すでにはげしい火焔のもえさかるところである。だからとて、此処ををきろうて彼処にいうならば、いったいどういうことになるのか。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
原文「いま圜悟さらに玄沙に同ぜず、雪峰に同ぜざる道あり。いはゆる、烈焔亙天ほとけ法をとくなり。亙天烈焔は法ほとけをとくなり。この道は、真箇これ晩進の光明なり。たとい烈焔くらしといふとも、烈天におほはれば、われその分あり、他この分あり。亙天のおほふところ、すでにこれ烈焔なり。這箇をろうて用那頭(ようなとう)は作麼生(そもさん)なるのみなり。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)

