「諸仏と神通」「いまより語ろうとする神通は仏者にとって日常茶飯のことであり、もろもろの仏はいまもこれを怠ることがない。これに六神通があり、無神通があり、また最高の神通というのがある。もろもろの仏は朝暮にこれを用いて間断するところがない。それは、仏の生ずるとともに生ずるが仏はそれを知らない。また、仏の滅するとともに滅するけれども、それで仏は無くなるわけではない。仏の上天のときにもそうであり、下生のときもそうであり、また、その修行のときにも、成道の時にも同様である。たとうれば、雪山にもひとしく、木石にも似ているのである。過去の諸仏は、みな釈迦牟尼仏の弟子であって、袈裟をささげて来たり、宝塔をささげて来たった。その時、釈迦牟尼仏は「諸仏の神通はみな不可思議である」といった。そして、現在及び未来においても、またそうであった。」(道元:正法眼蔵・神通)

原文「かくのごとくなる神通は、仏家の茶飯なり、諸仏いまに懈惓(げけん)せざるなり。これに六神通あり、一神通あり、無神通あり、最上神通ふり。朝打三千なり、暮打八百なる為体(ていたらく)ちせり。与仏同生せとりといへどもほとけにしらず、与仏同滅すといへどもほとけやぶらず、上天に同条なり。下天にも同条なり、修行取証みな同条なり。同雪山なり、如木石なり。過去の諸仏は釈迦牟尼仏の弟子なり、袈裟をささげてきたり、塔をささげてきたる。このとき釈迦牟尼仏いはく、諸仏神通不可思議なのり。しかあればしりぬ、現在未来も亦復如是(やくぶにょぜ)なり。」(道元:正法眼蔵・神通)

解説「六神通とはまた六通ともいう。神足通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通・漏尽通の六つの神通をあげるのが通例であるが道元所見はいささか違う。」「一神通・無神通・最上神通とは、つまり仏教においていうところの神通は、つまるところ仏の智慧の妙用にほかならぬのであるから、それは一に帰して一神通ということもできる。あるいは、その智慧を他にして神通はないから無神通ということもできる。さらにその智慧そのものをゆびさしていえば、最上神通ということができるのである。」゛「与仏同生・与仏同滅」とはそのいうところは、詮ずるところ仏たることと、神通をうることは、別のことではないというのである。神通とは、仏智の妙用にほかならないとするならば、当然そうでなければならないことが知られるであろう。」「上天・下天・修行・取証とは、仏陀の上生と下生と出家修行と大覚成道にあたっても、すべて同様であるというのである。」「同雪山・如木石とは、そのありようは雪山にたとえ、あるいは木石のごとしというのである。」