「また、六波羅蜜というのは施波羅蜜、戒波羅蜜、忍波羅蜜、精進波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜である。それらはいずれも最高の境地であって、これもまた無生だ無作だのの論にかかわるところではない。それらはまた、かならずしも施をはじめとして、般若をおわりとするものでもない。経にも、「利根の菩薩は般若をはじめとなし施をおわりとなす。鈍根の菩薩は、施をはじめとなし般若をおわりとなす」とみえている。したがってまた、忍を始めとすることもあれば、禅をはじめとすることもあろう。そのすべてをいえば三十六波羅蜜となり、籠から籠がでてくるということであろう。また、波羅蜜というのは、到彼岸である。彼岸は此処にあり彼処ありというものではないが、なお到ることができるのである。その到るというのが仏道の大事な問題である。修行のかなたの彼岸にいたるであろうなどと思ってはならなぬ。かなたの岸に修行があるから、修行すれば彼岸に到るのである。その修行はあやまつことなく、いかなる世界をも実現する力をそなえているからである。」(道元:正法眼蔵・仏教)

原文「六波羅蜜といふは、檀波羅蜜・尸羅(しら)波羅蜜・せん提波羅蜜・ひ梨耶波羅蜜・禅那波羅蜜・般若波羅蜜なり・これはともも無上菩提なり、無生無作の論にあらず。必ずしも檀をはじめとし、般若をわはりとせず。経云「利根菩薩、般若為初、檀為終。鈍根菩薩、檀為初、般若為終」しかあれども、せん提もはじめなるべし、禅那もはじめなるべし。三十六波羅蜜の現成あるべし、籮籠(らろう)より籮籠をうるなり。波羅蜜といふは、彼岸到なり。彼岸は古来の相貌蹤跡にあらざれども、到は現成するなり、到は考案なり。修行の彼岸へいたるべしとおもふことなかれ。これ彼岸に修行あるゆゑに、修行すれば彼岸到なり。この修行、かならず徧界現成の力量を具足するがゆゑに。」(道元:正法眼蔵・仏教)