「その衆生こそが「わが」説く「この」九部の法の随順するところである。その随順とは、他に随って去ることであり、自に随って去ることであり、衆に随って去るのであり、生に随って去るのであり、「われ」に随って去るのであり、「これ」に随って去るのであある。つまりその衆生は、結局、「われ」であり「これ」であるから、つまり、九部の法のそれぞれの箇条が衆生にほかならないのである。また、「大乗に入るにはこれを本となす」というのは、あるいは大乗を証するといい、あるいは大乗を行ずるといい、あるいは大乗を聞くといい、また大乗を説くという。しかるに衆生は、自然のままにして道を成就することはないのであるから、この経を説くことがそのはじめをなす。入りが本である。そして、本が正しければ末もまたただしいのである。」(道元:正法眼蔵・仏教)
原文「この衆生は、我此九部法の随順なり。この随順は、随他去なり、随自去なり。随衆去なり、随生去なり。随我去なり、随此去なり。その衆生、かならず我此なるがゆゑに、九部法の条条なり。入大乗為本といふは、証大乗といひ、行大乗といひ、聞大乗といひ、説大乗といふ。しかあれば、衆生は天然として得道せりといふにあらず。その一端なり。入は本なり、本は頭正尾正(ずしんびしん)なり。」(道元:正法眼蔵・仏教)

