「とするならば、青原が片足をおろしたというのも、そのまま三乗十二分教であるし、南嶽が「一物を説示すればすなわち中(あた)らず」といったのも、そのまま十二分教である。そして、いま玄沙かいった「総じて要せず」のことばも、またそうなのである。その道理をあげる時には、もはや仏祖のほかになにものもない。いや、半人もなく、一物もなく、また一事も起こらない。では、それはいかなる時であるか。いわく、それは「総じて要せず」の時なのである。」(道元:正法眼蔵・仏教)
原文「しかあればすなはち、青原の垂一足、すなはち三乗十二分教なり。南嶽の説似一物即不中、すなはち三乗十二分教なり。いま玄沙の道取する総不要の意趣、それかくのごとし。この宗旨を挙拈するときは、ただ物祖のみなり。さらに半人なし、一物なし、一事未起なり。正当恁麼時、如何。いふべし、総不要。

