「思うに、仏が法を説くというが、また法が仏を説く。法が仏に説かれるととも、に仏が法にとかれるのである。さらにいえば、煩悩の火焔もえさかるこの世界が仏を説き、法を説くのであり、また、部がこの世界を説き、法がこの世界を説く。かくて、この経をすでに説くという所以があり、また、この故に説くという所以がある。この経は説くまいとしても説かざるをえないのである。だからして「その故をもってこの経を説く」というのである。かくて、その説くところは全世界におよび、また全世界がこの経を説くのである。この仏もかの仏もすべてこの経と称し、この世界もかの世界もともにこの経をと説く。その故にこの経を説くというのであり、この経こそが仏の教えである。かくて知らねばならぬ。数限りも無い仏の教えが竹篦(しつぺい)であり払子であり、仏の教えの数かぎりもないのが挂杖であり拳頭である。」

原文「ほとれ法をとく、法ほとけをとく。法ほとけにとかる、ほとけ法にとかる。火焔ほとけほとき、法をとく。ほとけ火焔をとき法火焔をとく。是経すでに説故の良以あり、故説の良以あり、是経とかざらんと擬するに不可なり。このゆゑに以故是経といふ。故説は亙天(かんてん)なり。亙天は故説なり。此仏彼仏ともに是経と一称し、自界他界ともに是経と故説す。このゆゑに説是経なり。是経これ仏教なり。しるべし、恆沙の仏教は竹篦払子でなり、仏教の恆沙は挂杖拳頭なり。」(道元:正法眼蔵・仏教)

良以:良とはまこと。以はゆえである。まことに所以であるという意。「竹篦・払子・挂杖・拳頭」とは師家が学人を接得するに用いる道具である。