「すでに和尚に請うて問いたまえという。その時、その人はすでにその問題を解しているはずである。ひとたび和尚から問いが打ち出されれば、もはや逃げ隠れはできない。雪峰はいった。「では、にわかに明鏡の来るに遇ったときはいかに」この問いは、いま師と弟子とが相ともに学びいたる一つの古鏡について問うのである。玄沙は答えていった。「木端微塵でござる」そのいうところは、千々に砕けるというところである。つまり、にわかに明鏡が現れてきた時には、それは木端微塵となるのである。千々に砕けることを会得するのが明鏡であろう。4その明鏡を表現するとなれば、千々に砕けるとなるのであるから、砕けるところに明鏡があるのである。それを、さきにはなお砕けない時があり、また、のちにも砕けない時があるだろうと思ってはならない。ただ「千々に砕ける」のである。その千々に砕ける真相に対面することは、まことに難事である。しからば、いまもいう「千々に砕ける」とは、古鏡をいうのであるか、明鏡をいうのであるか。さらに一天して、そのような問いかたもあろう。だが、その時は、もはや古鏡をいうのでもない。明鏡をいうのでもない。古鏡か明鏡かと問うことはできても、玄沙のことばをとりあげて論ずるときにも、その舌端はただ沙礫・牆壁となって砕け散ったさまはいかにというなれば、まさに「万古の碧譚、空界の月」ということであろうか。」(道元:正法眼蔵・古鏡)
原文「すでに請和尚問ならん時節、恁麼人さだめて問処を若会すべし。すでに問処の霹靂するには、無廻避処なり。雪峰いはく、「忽遇明鏡来時時節如何」この問処は、父子友に参究する一条の古鏡なり。玄沙いはく、「「百雑砕」この道取は、百千万の雑砕するとなり。いはゆる忽遇明鏡来時は、壱百雑砕なり。百雑砕を参得せんは、明鏡なるべし。明鏡を道取ならしむるに、壱百雑む砕なるべきがゆゑに、雑砕のかかれるところ、明鏡なり。さきに未脱砕なるときあり、のちにさらに不雑砕ならん時節を管見することなかれ。ただ壱百雑砕なり。百雑砕の対面は、孤峻の一なり。しかあるに、いまいふ百雑砕は、古鏡を道取するか、明鏡を道取するか、更請一転語なるべし。また古鏡を道取するにあらず、明鏡を道取するにあらず、古鏡明鏡はたとひ問来得なりといへども、玄沙道取を擬議するとき、沙礫牆壁のみ現前せる舌端となりて、百雑砕なりぬべきか。砕来の形段作麼生。万古碧譚空界月。」(道元:正法眼蔵・ 古鏡)

