また、仏性は大にあらず小にあず」という。それも世の常の凡夫や小乗のやからの例にならってはならない。かたくなに仏性は広大なものとのみ思うのは、かえって誤解を重ねることとなろう。もしも大にあらず小にあらずというその表現にひっかかるようならば、いままさに龍樹の前にあってそれを聴くような思いをもって思いめぐらしてみるがよい。そう思って聴いておると、尊者はやがて偈を説いて申される。「身に円月の相を現じ、もって諸仏の体を表す」と。それは、もろもろの仏の実体を身をもって表現するのであるから、当然円月の相でなくてはならない。そこでは、長いの短いの、四角いの円いのというは、すべてその実体ではない。その身相における表現が判らなければば、円月の相が判らないばかりでなく、また諸仏の実体も判らないであろう。」(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「仏性非大非小」等の道取、よのつねの凡夫二乗に例諸することなかれ。偏枯(へんこ)に仏性は広大ならんとのみおもへる。邪念をたくわゑきたるなり。大にあらず小にあらざらん正当恁麼時の道取に罣礙せられん道理、いま聴取するがごとく思量すべきなり。思量なる聴取を使得するがゆゑに、しばらく尊者の道著する偈を聞取すべし。いはゆる、身現円月相、以表諸仏体なり。すでに諸仏体を以表しきたれる身現なるがゆゑに、円月相なり。しかあれば、一切の長短方円、この身現に学習すべし。身と現とに転疏なるは、円月相にくらきのみにあらず、諸仏体にあらざるなり。」(道元:正法眼蔵・仏性)
「偏枯」かたくななるをいう・

