「雪峰のことばはたしかに、法を転ずることを語っているけれども、その法の転ぜられる処においては、必ずしも法を聴く者ありやなしやについては言及するところがない。したがって、法を転ずれば必ず法を聴く者があるとはいわず、また、三世の諸仏は火焔のために法を説くとも語らず、あるいは、三世の諸仏は三世の諸仏のために親医成る法輪を転ずるとも説かず、火焔は火焔のために大いなる法輪を転ずるともみえないのは、祖の故である。いったい、転法輪といい、端大法輪というは、なにかその区別かあるかどうか。ともあれ、転法輪とはかならずしも説法することではなく、、また、説法とはかならずしも他の為にする者とは限らない。だからとて、雪峰のいうところは、けっし言うべきところを言い尽くしていないわけではない。要するに、雪峰が「火焔のにかにあって大いなる法輪を転ずる」と語ったことばは、玄沙の言葉と混乱してはならないところであって、そこをつぶさに学がよい。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)