「また、大いなる法輪を転ずるについては、自己を転じて対機を転ずることもあろう。事をのべて機に投ずるということもあり、あるいは、法を転じて法に転ぜられるということもあろう。だが、すでに法輪を転ずるというからには、たとい大地がことごとく火焔であろうとも、その時には、火輪を転ずる法輪もあろう、諸仏を転ずる法輪もあろう。また、法輪を転ずる転法輪があり、三世を転ずる転法輪もあろうというもの。とするならば、火焔はとりもなおさず諸仏が法輪を転ずる大道場なのである。それは、世界や時間や人間や、あるいは、凡夫だ聖人などという規準でもって測ろうとしても、とうてい測りうるものではない。そして、そういった尺度で測れないから、いま雪峰は、ずばりと「三世もろもろの仏たちは、火焔のなかにあって大いなる法輪を転ずる」というのである。すでに三世もろもろの仏たちという。それは尺度を超越しているのであり、その三世の諸仏が法輪を転ずる道場であるから、そこには火焔がもえさかっているのであり、火焔がもえさかっているいるがゆえに、もろもろの仏たちの道場があるのである。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)

原文「転大法輪は、転自転機あるべし。展事投機なり、転法法転あるべし。すでに転法輪といふ、たとひ尽大地これ尽火焔なりとも、転火綸の法輪あるべし、転諸仏の法輪あるべし、転法輪の法輪あるべし転三世の法輪あるべし。しかあればすなはち、火焔は諸仏の転大法輪の大道場なり。これを界量・時量・人量・凡聖量等をもって測量するは、あたらざるなり。これらの量に量せられざれば、すなはち三世諸仏、在火焔裏、転大法輪なり。すでに三世諸仏といふ、これ量を超越せるなり。三世諸仏転法輪の道場なるがゆゑに火焔あるなり、火焔あるがゆゑに諸仏の道場あるなり。」(道元:正法眼蔵・行仏威儀)